ちょっと言わせて!

真綿で首を絞めない経営を

 福島民友新聞が印刷部門を親会社の読売新聞に委ねたことは、新聞業界ばかりか、社内にも大きな衝撃を与えたようだ。「印刷」は人間で言えば「心臓」であり、社員にすればえぐり取られたようなものである。さらなる社長交代は「頭脳」としての衰退を意味するのかどうかである。これらは民友新聞の今後の経営に何をたらすのだろうか。

 活字媒体である新聞はすでに「旧メディア」であると叫ばれて数年が経つ。それを象徴するかのように全国で新聞社の倒産や廃業が相次いでいることは、すでに承知の通りだ。
 どの新聞社の関係者も自らを旧メディアと位置づけてはばからない理由にはそれだけの根拠がある。パソコン、インターネットの普及によって新聞の存在は極端に失われつつある。活字である新聞ばかりか、音声のラジオ、映像(静止画、動画)のテレビは「マルチメディア」の登場でメディアの座が揺らついできた。
 「マルチメディアは驚異の存在だ」と確信しているのは新聞社である。そこに敢えて踏み込まない、踏み込めないのも新聞社である。踏み込めば俗に言う「真綿で首を絞める」結果となることが読めるからである。

 それを象徴するのが各新聞社のホームページである。中央紙やブロック紙でさえ大胆な取り組みを控え、記事を出し惜しんでいる。地方紙に至ってはマルチメディアの存在を無視するかのような「購読の申し込み」と「広告の申し込み」にこだわり、読者とスポンサーの確保に躍起となっている。黙っていても新聞の読者離れと広告収入は減る一方だ。その証拠に独り暮らしの若者は新聞を取らなくなった。それまで新聞を見る記事のトップはテレビ番組欄、次いで芸能、社会、経済ニュース欄等々と続くが、いまやそれらはインターネットでさらに詳しく見ることができる。月々の新聞代3000円(前後)とパソコンにアクセスする通信料や電話代をセットした料金5000円(前後)の料金を払うには負担が多すぎる。通信コストが先進国で最も高い日本の利用制度にも問題はあるが、現在の情勢が続く限り新聞離れは加速するだけである。
こうした若者を中心に確実に進むのはインターネットへのアクセスである。こうした傾向を横目にしながらある地方紙では携帯と連携して新聞の代行サービスを数年前から始めたが、その普及度合いについては、まったく触れようとはしない。それどころが、ある時期になると発行部数の更新を強調する姿勢をまだ崩さない。

 新聞社がマルチメディアに経営の方針を転換しない限り、旧メディア的な経営が続くのである。新聞は決して無くなる存在ではない。だが「かわら版」が「新聞」に、新聞が「ラジオ」に、ラジオが「テレビ」に時代と共に移り変わってきたように、一方向性である「新聞、ラジオ、テレビ」は双方向性である「マルチメディア」に移り変わろうとしていることに目を背けてはならないのだ。

 そうでないとマルチメディアを媒体とした「ニューメディア」は育たない。我々のような専門業を相手とするいわゆる「ナロー(狭い領域)メディア」もいつまでも事業として成り立たない。大手新聞をはじめ地方新聞までが積極的にマルチメディアを駆使した新聞づくりに取り組まない限り、「旧メディア」は時代の中で翻弄されてしまう。
(2003・6・15)
                     主幹 富田正廣