右肩上がりを夢見よう

 重苦しい閉塞感に覆われている我が日本経済だが、ここで一つ覚えのように口にされている言葉に「もう、右肩上がりの考え方はダメなんだ」がある。昭和40年代のすさまじいばかりの経済成長・・・あの活気溢れた中で、働けば給与もボーナスも倍倍ゲームのように増えた。あの快感が身体に滲み込んだままでは現在の経済状態では通用しないよ、という一種の合言葉みたいなものだ。だから、これに反論する声は皆無に近い。

 でも、これは少々おかしいのではないか、とへソ曲がり的な思いを漠然と持っていた。何故って、こんな中でも増益している企業だってあるし、第一、これから良くなるっていう希望が無ければ、生きてゆく甲斐がないじゃないか、と思うからだ。そしたら先日、何気なく日経新聞の綴りをめくっていて23面のコラム「大機小機』の見出し「右肩上がりの発想は誤りか」が目に入った。内容は「“右肩上がりの発想は改めるべきだ”という提言の一方で“構造改革を推進して、経済の活力を高めるべきだ"と主張する多くの人がいる。この二つを同時に主張するのは矛盾している」と喝破していた。まさに“我が意を得たり”だった。右肩上がりの考え方がダメだという発想は、経済が成長しないでも成り立ってゆくような経営や制度をつくり出せ、ということであろう。つまり平たく言えば、構造改革なんかやらずに、経済成長はゼロのままで我慢しなさい、という意味になる。でも国民はみんな、暮らしはもっともっと豊かにしてゆきたいし、医療・福祉の水準も上げてゆきたい、と願っている。特に雇用機会は早く有効求人倍率を1以上にしてほしい、と願っているだろう。ここで既に矛盾を孕んでいるのだ。

 だから、多くの経済学者や評論家が、したり顔で「日本経済が低迷から脱却するには“経営を効率化せよ"“市場原理を生かし規制改革を進めることによって、供給面から生産性を高める必要がある”」などと、のたまう。経済学部卒だが“不経済学士"の頭では、今の経済評論家の言うことは半分も理解出来なくなってしまった。でも右肩上がりを夢想したっていいじゃないか、そうじゃなければ閉塞感から永遠に抜け出せないまま一生が終わっちゃうよ、という雑念が頭から離れない。結局、人頼みばかりしているようじゃあ、右肩上がりの世の中を夢見たってだめだよ。でも自己責任の時代だから、自分で作りだすなら右肩上がり大いに結構ですよ、というのが結論かな。(2003.4.30)
元福島民報社専務取締役
編集局長 星 一男